丼池繊維会館

丼池繊維会館

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HISTORY

丼池繊維会館と丼池筋の歴史

古典からモダニズムへ、
その移行期をリードした丼池繊維会館

日本銀行に象徴されるように、明治以降の日本の建築は重厚で威厳を感じさせるクラシックな古典様式でデザインされるのが一般的でした。しかし、欧米で盛んになっていたモダニズム建築の流れが波及し始め、大正時代に入ると、より自由で軽快なデザインを志向する新しい動きが生まれます。特に世界的な商工都市であった大阪では、伝統から放たれ、新しい感覚でデザインされた建築が次々と誕生していきました。

縦強調から横強調への変化、石材からタイルなどへの建材の変化、装飾の排除、幾何学化など。
丼池繊維会館が銀行として建てられたのは1922年(大正11年)。当時はまだモダニズム建築の黎明期でしたが、大胆に装飾を排するなど、驚くほど斬新で進取の気風に富むモダンなデザインへの意志で貫かれていました。

同時代の建築物

戦前は家具屋、戦後は繊維問屋街
として栄えた丼池筋

明治7年に埋め立てられた池の名前にちなんで命名された丼池筋は、大阪船場が繊維の町であるその歴史を物語ります。戦前は丼池筋に家具屋が、東の堺筋に繊維問屋が軒を並べていましたが、戦後になり繊維問屋が丼池筋に進出し、大阪が「繊維の街」と呼ばれるほど、繊維卸業の中心地になりました。また丼池筋には、いち早くアーケードが設置されました。
この丼池筋に銀行として建てられた丼池繊維会館は、その後町衆が買い取り、地域サロンや福利厚生施設として利用されるなど、公的年金だけをあてにしない大阪市民の自立の象徴でもありました。

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